親にこんなこと言われたことが忘れられない。
どうしてあの時こうしてくれなかったんだろう。
それは良くない思い出として残っていたりします。
それでも
仕方なかった
そうするしかなかったんだろう。
そう思おうとしてもやっぱりどこかでは残ってしまっていたり。
そんな時は
「親」を「人」としてしか見ていないから
そうなってしまうのです。
例えば友達の親はそう言うことはしなかった。良いなぁ。
だとしても
その友達の親の置かれた環境と
自分の親の置かれた環境が違っていたら
行動が違ってくるのは当然です。
環境と言っても
今現在の環境だったり
親が生まれ育った環境だったり。
親が子育て中の環境だったり。
親がそうなったのは本人の責任だけなのではなく
「そう言う環境だったから」
というのは大きな要因であり外せないものです。
なので
親にされて忘れられないことは
親本人だけの原因ではなく
親をそうさせた要因を考える必要があるのです。
それは
それなら仕方ない。と、アッサリとスルーするためのもの
というわけではなく
「人の行動は構造に支配されている」
ということが分かれば
それはそうなるわ。と、納得できるんですね。
そうなると
親からのあの言葉はそう言った背景があったんだな
でもあの頃は傷ついた。
それは自分の環境(つまり構造)がこうだったから
なぜ親があの言動になったか分からなかったから。
と、その時の自分と親を俯瞰して見られるようになるのです。
これは自分と親の問題だけでなく
自分と子どもはもちろん
自分と関係ある人全てに言えるのです。
他人については
どこかで割り切れることができたとしても
親に関しては
親なのに。とか、親だから。とか
他人とは違って
様々なことを期待してしまうんです。
だからこそ俯瞰の視点を養うことはとても大切です。
それには
社会構造(環境)と親
社会構造(環境)と自分
を考えられるようになると
普段から
誰かに何か言われても傷ついたり動揺することが無くなるのです。
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