「身の程を知れ」を間違って使ってない?

先日父と会った時に色々と話をしました。

その時父が
「そう言うのは身の程を知るのが大事だな」
と、言ったのですね。

それは特に私に対してではなく一般的な話だったのですが
父のこの言葉で色んなことが腑に落ちたんです。

これは母が口酸っぱく私に言っていたことです。
「身の程を知れ」と。

母はそう言う人なんだと思っていましたが
父もそうだったんだなと。
なんだかんだと価値観同じじゃない。と(⌒-⌒; )

実は私この「身の程を知れ」を間違った使い方をしていました。

思い出すのは大学生の頃。
ある人があることに挑戦したんですよ。

その人は特に親しくはしてなかったのですが
なんだかちょっとそんな話が私のところに伝わってきました。

伝わってきたと言うことはちょっとビックリする挑戦。
私はその時思いました。「身の程を知れ」と(⌒-⌒; )

そんな風に思う私はずっと「身の程をわきまえて」いました。

やってみたい、挑戦したいことがあっても
「身の程をわきまえて」挑戦なんてせずにすぐに諦めました。

そんなのうまく行くはずない。
「身の程を知れ」と。
だってずっとそう言われて育ってきたのですから。

それが「美しいあり方」であり「謙虚」で「美徳」だと思っていました。

が、なんだかモヤモヤが残るのです。

やりたいのに「身の程をわきまえて」やらないでいると
「身の程も知らず」挑戦する人を悪く言って
自分を「身の程をわきまえる謙虚な人」と納得させていました。

これって完全なるルサンチマンです。
※ルサンチマン=弱者の負け惜しみ

そこでモヤモヤが残るなら
どんな結果になっても誰になんと言われようと
やってみたら良いんです。

たとえうまくいかなくても
挑戦することで得られることはあるはずです。
少なくともやらないで後でモヤるよりは。

でも私はずっと挑戦できませんでした。

親からも止められるし
失敗してバカにされたくなかったし
自分も謙虚で美しくいたかったし(⌒-⌒; )

だからずっと自信が無いままでした。

挑戦しないことには自信はつかないんですよ。
本当にルサンチマンでしたね。

今は挑戦こそが自分を生きること。と、思っています。
そしてその姿勢が周囲に影響を及ぼし自分も自信を得られるのです。

勇気づけられる人は必ずいますしルサンチマンで否定してくる人もいます。
それでもその人に影響するのです。
そんな形で世の中に貢献できるのです。

何もしなければなんの影響も与えられない。いないのと同じです。

そうは言ってもいつでもどこでも挑戦できるわけじゃないし
元気が無いとできないけれど。

元気が無い時はそれでもできることはあるしその時に備えることはできます。

身の程知らずな挑戦は、自分のためにはもちろん誰かのためにもなっているのです。
身の程を知るのは何度も挑戦してみてからです。

こんなにやっても無理なら私にはこれは合ってない。
そうなってから「身の程を知る」のです。

何もやってないうちは身の程を知るも何も分からないですよ。
やってみてまた挑戦するのかこれはちょっと違うとやめるか。
やってみないとわからないのです。

やってみもしないうちから「身の程を知る」のは
そもそも知ってないし単なるルサンチマンです。
身の程はやってみてから知りましょう(^^)

ところでその大学時代の友達はどうなったのでしょう。
おそらくダメだったんだと思います。よく知らないけど。

だって成功した!って聞かなかったですから。
でもきっと何かを得たと思います。
そして何より「私」に影響を与えました。
もう30年も前のことなのに覚えているのですから。

結果はどうあれ身の程を知って何もしないよりも
誰かに何か影響を与えられる挑戦をする姿勢こそ
「美しいあり方」ではないでしょうか?

若い内は色々挑戦しておけば良かったと今頃になって思うのです。

でもいつからでも挑戦はできます。
今からだってなんだってできるんです。
生きてる内は挑戦し続けたいものですね。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次