「自己犠牲」に無自覚だった私が、友達と話が合わなくなった理由

先日、「無自覚な自己犠牲」について書いたけれど、私はまさにそれだったので、「自己犠牲」と言われてもピンと来なかった。

女性が我慢することなんてあたりまえだったからだ。

自己犠牲を自覚してから、いろんな学びをして、今度は学びを提供する側になった。

ある時、あるママ友と話していて、その人があまりに自己犠牲的だったので、もっと好きなことしてみたら?私はこんな風にしているよ。みたいなことを言ってみた。

そうしたら、めっちゃビックリして、え?そんなことしてて大丈夫?普通、嫌なことがあったら身近な友達と愚痴を言い合って、それからまた頑張って、また愚痴を言い合って…そんなものでしょう。と。

あ、そうなのか。それがあたりまえなのか。自己犠牲なんて微塵も思っていないんだ。
それは、かつての自分を見ているようで、ああ、この人も何も気づかないで今まさに自己犠牲の渦にはまっているんだ。
と思い、そんな状態の人に話しても、全く通じない…という自分の無力さにおののいたのでした。

でも、それが大多数で、そんなものなんだろう。

そのママ友は、ある時、私の子どもの同級生ではなく、お兄ちゃんが有名大学に入学したと一方的に言って、その後しばらくしてから、あなたにはお世話になったと一言連絡して転勤していった。

我慢して頑張った結果なのだろう。

頑張りが報われたのは素直に羨ましいと思う。

とはいえ、なんだか自己犠牲が報われた!私はこれだけ頑張ったんだ!と、マウント取られたようで、なんだかモヤったけど。
「ほら!自己犠牲の生き方がやっぱり正しかったでしょ!」と言われたように思ったのでしょうね。

以前の私は、我慢ばかりして子どものこと、親のことを一生懸命やってる自分が嫌だった。どうしたらもっと自由に生きられるのかと思ってた。自己犠牲とは自覚していなかったけれど、何か違和感を感じていた。

とは言え子どもは可愛いし、家庭は守りたい。

でも自由に生きたい。

だから学んだし、伝えた。

でも、自己犠牲と言われてもピンと来ないような段階でそう言われても、この人はなんか自分とは違う。と、異質なものと思われるだけで終わりなんだろう。

我慢の対極の自由に生きてる人なんて、良い悪いではなくて、もう別世界の人だし、異次元の人。
よくわからない人、なんだろう。

あるいはなんとなく自分を否定していると取られてしまうのかもしれない。

もしかすると、自己犠牲が当たり前で正しいと思っていたとしても、意識のどこかではみんな何か違和感を持っていて、それをズバリと指摘されると嫌なのかもしれない。蓋をしているものをこじ開けられるようで。

起業を始めた頃は、私と同じように自己犠牲で、我慢して頑張っている友人たちと一緒に学びたかった。

私が知った、新しい世界を知ってもらって、もっと心軽く子育てや親との関係を一緒に楽にして、たくさんいろんな気づきを話したかった。

だってこれまで一緒に子育てなんかを頑張ってきた大切な人たちだから。

そもそも仲良くなったのは、同じように自己犠牲で我慢して頑張っていたからだ。

でも、そこに気づかないと、異質な人扱いされるだけ。

もう自分たちと同じ、自己犠牲で我慢して頑張っていないから。

だから、学ぶことがどんなに良いことか、どんなに世界を変えてくれることか、子どもにとっても良いことか、いくら言っても刺さらなかったわけだ。

では、どうしたら刺さるのか?

と、当時は考えたものだよ。

当時の私は、言葉で一生懸命説明しようとしていました。でも、本当に必要だったのは「言葉」ではなく、私自身が「我慢の世界を抜けて、どんな状況でも、心軽く笑っている姿」を見せること、だったのかもしれない。

かつての仲間から「異質な人」に見えるのは、あなたが変化し始めた証拠。 もし今、一人で走るのが心細かったり、伝え方に悩んでいるなら、同じ道を通ってきた私とお話ししませんか?

3月下旬〜4月頭にかけてのどこかで、起業初心者、リスタートした人のお茶会やります。
詳細決まりましたら出しますね。

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